この地域は交通の要所で、奥伊豆へと進む玄関口であり、この地区は、大正13年(1924)の修善寺駅開設以後、修善寺町の中心地として目覚ましく発展した。
愛宕山(柏窪城址と町体育施設)
標高180メートル、北を古川、南を大見川にはさまれた小山である。西に狩野川を隔てて、修善寺城跡の城山がある。
愛宕山は柏窪砦または柏久保城跡ともいわれ、山頂に土塁やかこいの曲輸跡とみられる昔の遺構が残っている。ここは狩野城(天城湯ケ島町柿木)を本拠とする狩野氏の出城であったが、伊勢新九郎長氏(北条早雲)が伊豆全土を平定したとき落城したと伝えられる。この戦いは激戦であって、新九郎の潜んでいた谷と伝えられる新九郎谷・多くの戦死者を埋めたと伝えられる地獄沢の地名が残っている。山頂にはここで合戦が行われたことを示した石碑があり、それによると明応3年(1494)落城と記されている(豆州志稿)。
その後早雲は、この城を韮山城の出城として、南伊豆および東西両海岸部からの敵に備えたといわれる。城の下あたりに曹洞宗天桂寺がある。
昭和51年(1976)、愛宕山の南の麓に町営グランド(兼野球場)と体育館ができた。このとき,縄文早期の遺跡が発見され調査が行われた(桜台遺跡)。現在グランドにはナイターの施設も整い、また昭和59年(1984)、体育館の隣りに修善寺町農村環境改善センターと町営プールも開設された。
修善寺町外2ケ町衛生処理施設組合
町民グランドの真下、大見川の端の大きな煙突がある施設が、修善寺・中伊豆・天城湯ケ島3町の屎尿やゴミを処理する修善寺町外2ケ町衛生処理施設組合である。
昭和39年(1964)3町が組合を設立し、屎尿処理は昭和40年(1965)、ゴミ処理は43年(1968)より始めた。54年(1979)には旅館などの残飯や生ゴミ対象の処理施設が完成した。これは、ゴミ焼却炉の熱を利用して、生ゴミを乾燥し加工して家畜用の飼料を作るという省エネルギー、資源再利用の先進的な社会施設としてつくられた。
焼却施設については、昭和59年(1984)から総工費約4億円をかけて新型の焼却炉の新設が行われ、昭和61年(1986)に完成した。これは当時では最先端の処理能力8時間25tの自動式「機械化バッチ式焼却炉」である。
屎尿処理施設については、昭和63年(1988)に改良され、平成5年には乾燥汚泥施設が完成した。また、平成元年には新型缶プレス機を購入し、平成7年には天城湯ヶ島町本柿木に最終処理場を完成させ、燃え残った灰などを埋め立てている。
現在、平成9年に施行されたリサイクル法により、ゴミは細かく分別収集されている。特にプラスチックを3つに分類し収集していることが修善寺町の特徴である。
修善寺駅および駅前・駅北の市街化
現在の伊豆箱根鉄道が修善寺駅まで開通したのは大正13年(1924)8月のことである。この年修善寺は村から町として新たに出発をしたが、当時駅周辺は北狩野村柏久保地区の坂下耕地と呼ばれる段々畑と水田地帯であった。鉄道会社はこの傾斜地を崩して平地をつくり、駅開設と同時に道路を駅前に設け、土地を分譲した。また、渡し舟に頼っていた狩野川に鉄橋がかけられ、修善寺温泉場へと結んだ。その後、バス路線の開設などにより、中伊豆地方の交通や商業・経済の中心として賑うようになり、市街化は急速に進んでこんにちに至っている。
修善寺駅の1日平均乗降客はこんにち約8千人といわれる。朝夕は通勤通学客が多い。また行楽期には乗降客は増加する。JR東日本乗り入れによる東京直通の特急電車(踊り子号)もある。
修善寺駅は終点駅であり、伊豆西海岸・南伊豆・東伊豆へのターミナルとしての立場をそなえてきた。
修善寺駅前(南地区)が開発されると、今まで耕地として残っていた駅裏(北地区)に開発の目が向けられることになり、昭和51年(1976)から55年(1980)にかけて駅北土地区画整理事業(総面積10.6ヘクタール)が行われた。その結果、道路・公園が整備され、全く新しい商業地区が誕生した。昭和57年(1982)の大型スーパーの進出開店をはじめ、新店舗の開業、銀行移転、医院開業等が見られ著しい発展を見せている。